歴代宗家

たつみさんきょう
立身三京 一流祖一

応仁の乱(一四六七年)の後、世は戦国時代に入った。伊予国
(現在の愛媛県)出身の武将立身三京は、永正年間(一五〇四年から一五二〇年)、
戦場、真剣試合において一度も不覚をとらなかった。後、妻山大明神
(美濃国とする伝書がある)に参籠して悟りを開き、必勝の原理を会得して、
立身流を創始した。

立身三京は、美濃国(現在の岐阜県)と縁が深く、又、その父が伊予出身
である戦国武将稲葉一鐵の別名であるとの説がある。

諱を則正と記す古伝書がある。


たつみいわみのかみ
立身石見守 一第二代宗家一

立身三京の子。平岡石見守頼勝の別名との説がある。
諱を正家と記す古伝書がある。


たつみかずまのすけ
立身数馬佐 一第三代宗家一

立身石見守の子。平岡石見守頼資(幼名数馬)の別名との説がある。

(15代略)

かとうひさし
加藤久 一第十九代宗家一

明治十七年(一八八四年)一月一日生まれ。忍耐に忍耐を重ねて修行し、
半澤成恒から免許皆伝を授けられ、宗家を譲られた久は、今日で、佐倉市の
弥富の地で、「弥富聖人」と呼ばれている。これは、久が武術以外に人格的
にも優れていたことを示すものであり、顕彰の碑文には数々の逸話が
刻まれている。

・高野佐三郎、中山博道について学び、天覧試合、明治神宮大会等に出場する。
持田盛二は師であり親友であった。
・大日本武徳会から剣道、居合術両道の教士の称号を授与された。
・部隊将校団、憲兵隊、警察、武徳会、古武道振興会の師範として、
斯道の振興に力を尽くす。その佐倉連隊将校団は師団競技会に三年連続
優勝を飾った。
・昭和十五年(一九四〇年)、ヒットラーユーゲント来日に際して、
政府の要請により 立身流居合及び試し斬りを行い、称賛された。
・関東大震災の時、佐倉で虐殺されそうになった朝鮮人六名をただ一人で庇護し、
内務大臣に表彰を受けた。

久は高野佐三郎の門下生となったのは師である半澤成恒の紹介によるもので、
このとき成恒は、「お前に教えることはもう何もなくなった。高野は将来立派に
大成する男だから、高野の下で修行してこい。」と言って紹介状を
書き与えたという。
久は、高野佐三郎から一刀流の伝書を授けられている。しかし、半澤成恒の
最晩年迄、久は中気を病む師から道場の床板に布団を敷きつめてイ和(やわら)
の稽古をうけていた。
立身流伝承者として、柔軟な考えの持ち主であったので、従来の体で覚え込む
修行法のみを改め、技を分解し、立身流の極意を分かり易く門人達に伝えた。

余興を求められ、腕組した両手を堅く練らせて抜刀し、
これは居合ではなく曲芸です
と恥じた話、呪文を唱えたら泥棒が引き返して来た話、等々枚挙に暇がない。
久は、数抜き(立身流独特の稽古法)を三万本通している。その試し斬りも有名で
あり、様々に言い伝えられ、又著作に示されている。次にその一文をあげる。

「据物切りでも有名な、中山博道先生は、軽妙な居合の姿勢で軽く切るが、
その手は鮮やかである。加藤久といふ斯道の大家の切り方を見たが、
忍び寄る様な姿勢で、気合で切る。力は形の上には微塵も見えない。
こうした据物切りになると、もはやそれは精神鍛練の域であり片現である。」
(文芸春秋昭和十四年五月号成瀬關次)。
昭和二三年(一九四八年)一月二一日死去。


かとうさだお
加藤貞雄 一第二十代宗家一

明治四三年(一九一〇年)五月二日加藤久の長男として出生。父久につき、
幼少より剣道、立身流を学ぶ。剣道は持田盛二の指導も受けた。
久を補佐し、立身流や武術関係の資料収集にも功績があった。
全剣連剣道教士・居合道教士となる。当代宗家と比較した個性として
「貞雄は軽い刀を重くつかい、高は重い刀を軽くつかう」と評
された。日本古武道振興会の当初からの会員として活躍した。
流門の逸材が相次いで戦死した第二次世界大戦後は、弟高と共に立身流の
隆盛に尽力した。
千葉県指定無形文化財保持者。昭和五九年(一九八四年)一二月三日死去。


かとうたかし
加藤高 一第二十一代宗家一

大正二年(一九一三年)七月二十五日加藤久の次男として出生。現宗家である。
父久につき、幼少より剣道、立身流を学ぶ・佐倉中学校、国士館専門学校を経、
以降も高野佐三郎、中山博道、持田盛二、斉村五郎その他多くの
剣士に指導を受けた。
昭和十二年(一九三七年)五月大日本武徳会より剣道五段錬士、
居合術錬士を授与された。居合では最年少錬士であった。
現在、全剣連居合道範士。剣道教士、日本古武道振興会会長、
日本古武道協会常任理事、千葉県剣道連盟参与
・千葉県指定無形文化財保持者であった。
平成十六年三月死去。


かとうひろし
加藤紘 一第二十二代宗家一

昭和一九年(一九四四年)六月二〇日加藤高の長男として出生。幼少より父高、
伯父貞雄、流門の皆伝師範長野弘、同大木邦明等につき剣道、立身流を学ぶ。
昭和五六(一九八一年)年一二月立身流免許皆伝を高より允許される。
千葉県指定無形文化財保持者である。




警視庁における立身流

明治政府となってから武術は断絶の危機にあったが、撃剣興行や西南の役
での抜刀隊の活躍等により従来の撃剣が見直され、明治十四年(一八八一年)
には多数の名剣士が警視庁に採用された。その警視庁で当時師範を勤めたのが、
梶川義正、上田馬之助そして立身流剣士逸見宗助であった。
この逸見宗助の活躍がきっかけとなり、警視庁で活躍する立身流剣士がでてきた。


へんみそうすけ
逸見宗助

逸見忠蔵の嫡男として、天保一四年(一八四三年)出生。一八才にして立身流の
目録を受けた後、鏡新明智流桃井春蔵門下となり、竹刀剣術を学んだ。
立身流の修行でその土台が出来ていたためか、一年足らずで桃井道場の塾頭
となった。
その後、帰藩し明治一二年(一八七九年)頃警視庁(当時は警視局)に入り
同二〇年には外勤部警部となったが、実際は、本部で武術指導者を教授する
撃剣専務教師が本職であった。

又、宗助は上田馬之助や高山峰太郎等と数々の名勝負を繰り広げ、
当代随一の剣道家であると称賛された。「大日本剣道史」には以下の様に
記されている。

「(前略)日本でも一、二番で三番とは下らぬ名人になった。山岡鉄舟日く、
剣客は沢山あるが、逸見だけは、真の剣を遣ふと評したといふ。
稽古振りの立派な事無類で逸見の歿後其類を見ないといふ。」

宗助は汗かきで、稽古の際も大きく「フー」と、深呼吸をよくしていたと言う。
水術は向井流であった。没は明治二八年(一八九五年)末頃と思われる。
千住町源長寺に葬られた。


かねまつなおかど
兼松直廉

明治二一年(一八八八年)六月の「警視庁撃剣世話係たりし者及びその階級」
の中の二級(最上級)の部に、吾妻橋署真貝忠篤、守衛係得能関四郎、
八名川署三橋鑑一郎、富岡署下江秀太郎等と並んで、小川町署兼松直廉の名
を見ることができる。
明治二二年(一八八九年)七月二〇日、逸見宗助等と共に出場した撃剣大会に
於いて警視庁勢で唯一人引き分けに持ち込んだと言う記録が残っている。


むらいみつとも
村井光智

「日本武術名家傳」によると嘉永二年(一八四九年)七月佐倉藩士村井孫太夫の
二男として生まれた光智は、一二才の時から逸見忠蔵の門下に入り、
剣術を学んだ。一八才で立合目録、一九才で居合目録を受けた。
二〇才の時藩から剣術修行の命を受け、諸国を回り数々の剣士と試合をした。
明治一六年警視庁に招かれ剣術教師となり明治三一年(一八九八年)まで勤めた。
明治一七年(一八七四年)に向ケ岡弥生舎に於ける撃剣大会に出場し、
長岡の神道無念流坂部小郎と対戦したが敗れたと言う記録が残っている。
明治三一年(一八九八年)には大日本武徳会に入会し、その後は毎年本部大会
に列席し諸国の剣客と試合をした。
明治三二年(一八九九年)には総裁小松宮殿下より武術精錬の状を受けている。

「大日本剣道史」では、逸見宗助、兼松直廉、村井光智は共に、
流派は立身流となっており、彼らの警視庁での活躍によって立身流の名は
全国に知れわたった。又、警視庁では、剣術、居合、柔術の形を制定した際、
立身流の形を取り入れている。
明治一八年の武道大会を契機に、指導上の統一を期する為、梶川義正、
上田馬之助、逸見宗助、得能関四郎、真貝忠篤の五人が協議して一六の流派
から選んだものを統合して、警視庁流木太刀の形をつくった。それによると、
剣術の形十本の内四本目に立身流の「巻落」が、居合の形五本の内五本目に
「四方」が採用されている。

又、現在は消滅してしまったが、警視庁流柔術の形全十六本の三本めに
「柄搦」(つかがらみ)が採用された